或る一つの結末。伏見つかさ『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』完結

これは、あのころのアンダーグラウンド・オタクカルチャーへの、ライトノベル側からのラブレターだ。

『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』、通称「俺妹」の原作ライトノベル12巻が発売されました。くぅ〜疲れました、これにて完結です。

「メタ妹もの」としての俺妹

2008年にスタートしたこの作品は、いわゆる「萌え妹もの」という、それまでのアンダーグラウンド・オタクカルチャーにおける一ジャンルを相対化する存在として描かれ続けてきました。現実世界において主人公の妹である高坂桐乃は、ギャル系美人女子中学生で、読者モデルで、スポーツ万能で……そして兄のことが大嫌いでほとんど会話を交わさない。そんな彼女のもう一つの側面、すなわち「妹モノの男性向けエロゲーが大好きな隠れガチオタ」としての姿を知った兄は、妹のことが大嫌いだけれど、妹の人生相談に応え続ける……。そんな「メタ妹もの」です。

桐乃は昨今のファッションオタクがドン引くであろうほどにハードコアなオタクとして描かれます。1990年代後半から2000年代前半にかけてアンダーグラウンド・オタクカルチャーの最前線にして最もラディカルな表現媒体となり得たギャルゲーやエロゲー、ノベルゲームに対する深い愛を隠し持ち、はてなアンテナでかーずSPとアキバBlogの更新をチェックするという、要するに「あのころのオタク」の姿を晒すのです。現実の友達も、モデル業も、陸上も大好き。そして同時に、妹モノのオタクカルチャーやエロゲーも、大好き。……そして、兄が大嫌い。それが高坂桐乃でした。

「妹と恋愛をしてしまう兄」というフィクション作品が存在するし、そういうものが大好きでありながら、同時に「現実では兄と妹の恋愛なんてあるわけないじゃん、バカじゃん?」と言う妹と、彼女にそうした趣味を共有され少しずつそうした世界に歩み寄りつつも、それはそれとして「現実では妹のことを好きになるなんてあるわけがねーんだよ」という認識を持ち続ける兄。そういう二重構造の前提を共有した本作は、信頼できない語り手である兄・高坂京介の主観による巧妙に計算された文章と、真意を決して言葉にしない妹・桐乃の行間描写に支えられ、表面上「兄と妹が長年の不仲を乗り越え、妹の隠れ趣味(エロゲー)をきっかけとして再び歩み寄る」というテーマを進行させつつ、その裏側に朧げに見える危うい真意を深読みさせ続ける、緊張感の高いテクストとして成立してきました。

選択肢、それぞれの物語

やがて本作は、物語が始まるきっかけとなるエロゲー的な、もう少し分かりやすく言えば「選択肢で物語が分岐していく多ヒロイン型ノベルゲーム」の構造を巧妙に採用し始めます。主人公の選択はゲームの選択肢に重ね合わされ、同時にゲームと現実は違うとその度に語られ続けます。その極点が、実際にPSP向けゲームとして発売された『俺の妹がこんなに可愛いわけがない ポータブル』シリーズでしょう。原作内で巧妙に「このように解釈できるし、もしかしたら物語はそうなったであろう」と散りばめられた描写や選択肢を可視化し、実際に選択肢型のノベルゲームとしてプレイできるように仕立て上げたゲームシリーズは、原作と並列して見なければなりません。事実、いくつかのシナリオは、原作者自身が書き下ろしているし、原作でも同様の描写が登場したり、原作の裏で進行しているだろうと想像させる内容がゲームで描かれたりしています。そしてそこでは(まさにギャルゲーやエロゲー、ノベルゲームのように)京介とさまざまなキャラクターたちと、そして桐乃の物語が描かれます。

ではゲームにおける「桐乃ルート」は? この問題は、アクロバティックな(しかし「メタ妹もの」として極めて秀逸な)方法で解決されます。ゲームでは「桐乃は義理の妹である」という設定に変更されるのでした、めでたしめでたし。じゃあ何も問題がないよね! もちろんご存じの方はご存じのように、妹もので「最終的に実は義妹でした」は御法度であり、興ざめです。そうした禁断のIFを、ゲームのシナリオの1ルートとして消化してしまう……ことで、ゲーム商品としてメインヒロインの物語を含めなければならないという課題を解決しながら,同時に原作とは別の物語を紡ぐという構造を可能にし、さらに「原作では義妹でしたなんて物語にはしないよ」という表明になるという、良いアイデアだと思います。

ゲームのいくつかのシナリオでは、登場人物たちの本音や、あるいは、きっと正しい結末にはそういう要素や行動が必要だったんだろうな、という描写が散りばめられています。それを踏まえて、この原作最終12巻と向き合ってみると、この原作の結末が何であるか、見えてくるように思います。

愛すべき、間違いだらけのトゥルーエンド

原作の結末は、或る一つの結末です。選択肢型ノベルゲーム的に言ってみれば、最後に解放される「メインヒロインのトゥルーエンド」。でも、ここでは多くの間違いが、理想的でない物語が、回収されなかった伏線が残されます。田村麻奈実が本当に目指していたことや、黒猫が描いた未来像や、サブキャラクターたちのそれぞれの物語は、原作最終巻では明確に切り捨てられます。特に最初の2点は、原作小説だけを読んでいると、きちんと正しく回収されなかったり、完膚なきまでに破り捨てられたりすることで、作品としてどうなのかという評価にもなり得ます。しかし、本作はエロゲーから始まった、エロゲー的構造の、あのころの自由でラディカルで、どんな実験作品でも許容し得た世界へのラブレターなのです。だから、原作の「或る一つの結末」で切り捨てられるものがあってもいいのです。打ち捨てられた物語は、伏線は、真意は、すでにゲーム側で、きちんと回収されているのだから。むしろ現実だって「選んだ結果、ほかを切り捨てる」なんて当たり前じゃないか、そういう意志を感じます。

原作最終巻で描かれるのは、桐乃が頑に表明してこなかった、いかようにも解釈し得る「本当のこと」に対する「一つの解答」です。そして、信頼できない語り手である京介が自分も読者も巧妙に騙し続けてきた「本当のこと」に対する「一つの解答」でもあります。

「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」。

京介はずっとそう言い続けてきました。そして、或る一つの結末として明かされた「本当のこと」に対する「一つの解答」を経て、きっとこれからもそう言い続けるのでしょう。現実はエロゲーとは違う。兄と妹が恋人になるなんてあり得ないし、それで幸せになりましたなんて安易な結末は訪れない。そうやって「フィクションと現実の壁」を見せながら、同時に、その中でどうするか、どう生きるか、一つの解答を提示する。きっと間違えています。多くを切り捨て、周りを傷つけて、間違いだらけの結末だけれど、それが彼と彼女の「この物語での」選択なのだとしたら――きっと世界はそうなっているし、多くの人から間違っていると言われながら、それでも笑っていられるのでしょう。

間違いだらけで、どうしようもなくて、気持ちが悪くて、唾棄すべき、そんな何かを許容する。これは、あのころのアンダーグラウンド・オタクカルチャーへの、ライトノベル側からのラブレターです。

完結、おつかれさまでした。最高でした。